【後編について】
前篇は「以下は、産業革命、そしてそれをベースとした我々の社会について考えてゆきたい。」と終わっていますが、後編ではあまり産業革命には触れられていません。産業革命と現代の組織社会については結局2000年になって、東京の大学で社会人講座として巡り合うので、その内容は経営組織論(経営学)やブログ「現代企業の特質と社会の調和」として、別途掲載してゆきます。
もともと参考とした書籍の表題は「エントロピーの法則 ━21世紀の文明観の基礎」となっていました。この「21世紀の文明観の基礎」という部分は当時あまり理解できていなかったのですが、、2020年の今「社会構成主義」「モダン・ポストモダン」という概念をやっと理解できるにつれて、的を射た副題だなと感じる事が出来るようになりました。後編の最後の方で、経済学の批判という形で社会構成主義のような考え方が述べられているのも、今から見てみると興味深い点です。対話型組織開発のマインドセットである社会構成主義が越えていこうとしている「モダン(近代)」と、「ポストモダン」について再確認するという意味では参考になるかと思います。
また、この中の論点として、「市場は均衡するのか」という指摘がされていますが、これを書いた当時(1983年)は「インフレ」が問題になっており、今2020年時点では過去20年間にわたる「デフレ」が問題となっています。2023年には「インフレ」傾向が出てきました。現時点(2020年)では、新型コロナウイルスによる1929年の大恐慌以来と言われる市場の混乱やその後の公的支出をもとにした高騰等の乱高下についてもも取りざたされています。原油先物価格はマイナス価格(2020年5月)となり、原油価格は1バレル$20まで一時的に下落しています。(2021年11月には$80まで高騰)このような状況と過去40年弱を振り返る限り「市場の調整による均衡点」というのが、実在するのかについてはかなり疑問に感じられます。つねに上下に振れ動く状態が市場では常態であると言わざるを得ません。市場は均衡するどころか、常にバブルとクラッシュを繰り返す不安定な素粒子のようです。つまり、市場の均衡とは一瞬の通過点における価格形成のシステムを指しますが、一瞬はすぐに過ぎ去り、常に絶え間ない市場変化が続いてゆきます。
また大変残念ながら、40年以上も前から地球規模の危機が語られていながら、ディスコースは変化することがなく今日までモダンな価値観に基づく世界が変化なく続いてしまったという事も感じます。
前篇に引き続き、2020年代の現在のコメントは、【 】内に記載します。
以下、後編となります。
(7) 変動する世界
それでは、現在の科学の考え方は、古典物理学からどのように離れて行っているのであろうか。これからの経済学を検討する上でも、大切である。
バートランド・ラッセルは、著書『科学の展望』の中で、次のように述べている。
「面白いことに、通りを歩く人間が科学を完全に信じ始めたとたんに、実験室にいる人間は信念を失い始めた。私がまだ若い頃には、物体の運動はすべて物理学の法則に従いうものであり、その変化は方程式通りの数値で表すことが出来るという確信をすべての物理学者が抱いていたにも関わらず…。」
我々は、古典物理学に寄りかかって、綿密に生命を系統化する方法を編み出してきた。しかし、今日の科学者に言わせれば、当の古典物理学の仮定は、そもそも大きな過ちを犯しているというのである。例えば、初めにデカルトが打ち出した考え方を例にとってみよう。デカルトの考えとは先述の通り、世界を”科学的方法“によって理解し、次いでこれを系統化することができるというものである。つまり、物事を計量化できる客観とそうでない主観に分けた訳である。しかし、現代物理学の量子論によると、そんなことはないという。20世紀初頭、科学者は生命現象を支えるミクロの世界を深く追求し、宇宙における物質の最も基本的な粒子の位置を探り、分離し、そして測定しようとした。そこで科学者が気づいたのは、追及を深めて微細な粒子を発見してゆくと、次から次へと更に微細なものが発見され、キリがないという事であった。そして、これまで自分たちのやってきたことすべてが、宇宙に翻弄されていたにすぎないことが、朧気ながらに判りかけてきたのである。更に最近になって、陽子でさえ寿命を持ち、崩壊してしまうことまで発見されたのである。
【2020年の現在においてはクオーク等最小の粒子は更に細かくなっているようである】
ドイツの物理学者ハイゼンベルグ(1901~76)の次のような発見は、古典物理学にとって大きな発見であった。それは、「原子核などの素粒子を客観的に観察するのは不可能な事だ。というのも、観察するという行為には光を必要とし、こういったミクロの世界では、そのエネルギーが観察すべき素粒子を跳ね飛ばしてしまうような妨害を行うからである。だから、我々人間には、素粒子そのものの運動は永遠に判らない。」
ハイゼンベルグや、彼の解釈に共鳴して量子力学のミクロの世界を研究した人たちは、この観点から新たな観察を繰り返した。その結果、物質を正確に計測すること(古典物理学では基礎の基礎である)は不可能であることが分かった。なぜなら、そうする為にはある与えられた瞬間において、ある対象の速度と位置を同時に決めなければならない。だが、粒子の中で最も微細な電子を観察すれば、その度に、観察行為それ自体が見つめる対象に影響を及ぼしてしまう。残念ながら、彼らはそう認めざるを得なかった。なぜなら、電子を見る事が出来るのは、それが光を放った時のみであり、しかも、光を放つのは電子が飛び跳ね、曲線運動をする時だけである。従って電子の位置を見る為には、どこか別の場所に電子を“移動”しなくてはならないからである。ハイゼンベルグが導いた理論は『不確定性原理』と呼ばれている。これは、ここ400年近く物理学の法則を取巻いてきた頑強な決定論を打ち砕いたといえる。
そして、アインシュタインによる特殊相対性理論の出現は、ニュートン力学を単なる限定された特殊な場合における理論へと追いやったのである。特殊相対性理論は、「光速度不変の原理」がもとなっている。この理論によると、速度は時間の相対性の原因となる。つまり、時間は人それぞれに対する固有時となるのである。
光速度c=30万km/sとし、ある人の時間をΔt、その人に対して、速度vで等速直線運動をしている時計の時間Δt‘とすると、Δt’=√1-v²/c²となる。 Δt’<Δtとなり、速度により「時間が収縮」してしまうのである。また、ある人が図る長さをl、その人に対して、速度vで等速直線運動をしている人が同じ長さを測ったものをl‘とすると、l’=l√1-v²/c²となり、l-l’分だけ縮んでしまうのである。そして、速さvで運動している物体の質量mは、静止しているときの質量mºでなく、m=mº/√1-v²/c²としなければならない。この式からE=mc²という式が導かれるのである。これは、質量・時間・長さは、物体の速さによって決まる固有の存在なのである。我々が見るものは、銀河系が宇宙で飛ぶ速さ、太陽が銀河系内を回る速さ、地球の公転速度によって決まっているのである。もし、つまり、本当に地球が止まってしまえば我々は単なるエネルギーの塊と化してしまうかも知れない。また、不確定性原理によって、速度か、位置しかわからないのであれば、もはや素粒子は見る事は出来ないのである。
物理学者マックス・ボルン(1882~1970)は、これまでの科学者の行き着く方向に対する不満を代弁して次のように言っている。
「我々は確かな基礎を追い求めてきたが、何も見出だしてはいない。深く追求すればするほど、宇宙は静止してくれない。一切が猛進し、気違いじみた舞踏の中で揺れ動いているのだ。」と。結局、あらゆる出来事は、それ自体が唯一無二の存在である点につきる。同じ現象は二度と起こらないと言って良い。しかも、その現象の起こる原因は、それに先立つ一連の条件だけによって決定されるのではなく、むしろ、迷路のごとき過去の一切の現象の有機的な影響によって展開され、繰り広げられているのである。
つまり、「現象は、それが一部を成している宇宙から他の部分を切り離すことが出来、次いで、他の隔離された現象との一種の“純粋”な因果関係の中で関連を持っている。」としたニュートンの考え方は、明らかに間違っていることが証明されたのである。
この宇宙に存在するものは、すべてあたかも蜘蛛の巣のように複雑巧妙に絡み合っていて、他のあらゆるものと関連を持っている。しかもその複雑さは、なお人間には解明できない。例えば、ある一つの池における生態系の内の仕組みの内、ほんの小さな部分ですら計算しつくすことは出来ないのである。科学者はこれに何度も挑戦したものの、その複雑さと細密さの為にさじを投げている。【社会構成主義の世界観との共通性を感じます】
これまでのニュートン的な考え方は、孤立した要素たる物質ないし固定したエネルギーの蓄積として、すべての現象を扱ってきたが、それが今、あらゆるものはダイナミック・フロー(宇宙全体の流れ)の1部を成しているという考え方に道を譲っているのである。
ダーウィンの「進化論」も同様に現在において否定されつつある。フランスの生物学者グラッセ博士は次のように主張する。
「最初の生命の発生に関しては、ほとんど化石の証拠物がないので、進化の構造の説明はその基盤もスタートも全部仮説だという事が出来る。直接の証拠がないから生命の発生については純粋な推測の域を出ず、これらの推測が正しいかどうか判断する基準もないのが、現状である。」
さらに、進化における中間生物は化石では発見されていないし、自然淘汰論もいつも優れた動物が生き残っているとは言い難い。また、段階的進化論については、ハーバード大学の生物学者スチーブン・グルードが「器官の進化の中の途中で顎半分とか翼半分があっても何の役には立たないではないか。」と言い、ダーウィン自身も眼の発生については、「眼について触れられると、どう考えていいのかわからずぞっとする気持ちを押さえられない。」「眼は距離によって焦点を変えたり、入る光の量を調整したり、自由自在に機能する。これが自然淘汰で作られたと考えるのは、全く無理であることを私自身認めざるを得ない。」と告白している。「自然淘汰による斬新的発達」こういった生物組織の例は何千とあるのである。また、生物の発生の確立についても「確率論の立場に立って進化論を検証してみたが、ダーウィニストたちの主張に根拠がないことが証明されただけだった。要するに、生命が自然発生するには、地球の歴史があまるにも短すぎる。正しい科学的な進化論は、これからの新しい自然の法則の解明を待たなければならない。」とパリのコンピュータ学者マルセル・シュッンバーガー博士はいう。このように「進化論」も否定されつつあるのである。
【太古から地球の歴史を振り返って見てみると、微生物から始まり淘汰というよりは分化による多様性による調整が行われているようにも感じます。】
現在では、我々の顔から足が出ないという場(フィールド)の力と体内時計というものが注目されている。場の理論とは、同じ細胞でも顔になるものは顔に、足になるものは足になることである。体内時計によって、受精した瞬間から時間を図りながら成長し、どの部分にどれだけ成長の時間をかけるかで、出来る組織の姿が決定されるのである。これから出てきたものが、「時間的生物論」である。この理論によると、「あらゆる生物は何らかの方法で次の瞬間を予知し、多くの可能性の中からそれに一番良い行動を選択するというものである。」これは、第二章で述べた遺伝子コンピュータにより環境に適合してきたのが生物であるという規定と合致する。そして、環境に出来ない生物は生き残ることが出来ないのである。このような「予期と反応」の繰り返しこそ、生命と生物の本質なのである。【この部分は「対話型組織開発」の考え方と合致する観点も多いと思います】
ホワイト・ヘッドは、彼独特の哲学でこれを「精神(マインド)」と定義し、これが生物のあらゆるレベルに存在すると考えた。彼によると、「精神」は自然界の生物の中にあるというより、自然そのものなのである。更にホワイト・ヘッドは、この新しい生物理論を一歩進め、ダーウィン説の持つ大きな矛盾━単なる物質からどうして自意識と生命が生じたかについて、次のように説明した。
「初めに『精神(マインド)があった。『精神』そのものが自然に他ならなかった。おのおのとその中に現れる生物は、それぞれの未来を予期し、それに合わせて行動することによって少しずつ自然界の『精神』全体に反応出来るものへと近づいて行った』と。
ホワイト・ヘッド派の学者たちは、生物の一つ一つを、世界を作っている「精神」全体のそれぞれの現われと考えた。つまり、生物は大パターンの小パターンである。各生物は「意識」の命ずるままに少しでも自分の見通せる「時間(テンポラル)の限界(ホライズン)」を越えて、宇宙全体を構成する全精神まで達しようとする、というのである。要するに進化とは、自己の完成を目指す試みであり、そのゴールは自分の精神を宇宙そのものの意識にまで広げる事なのである。更に化石は突発的な構造変化があったことを証明している。新しい時間進化論を説く人々は「突然、外界にある激しい変化が生じ、生物はすべてその時間間隔を調整しなおさなければならなかった。それが、突発的な新種の発生(突然変異)を惹き起こした。」と主張するのである、これは、第二章で述べたように、生物はエントロピーの法則に抗うことによって存在し、環境に合わせて姿を変えてきたという事である。このことは、ある時期にある種の生物が急激に発生することを化石が証明している。
この理論では、生物をそれぞれのパターンを持った複合体と見る。前述のように、生物はリズムと時間に囲われた存在である。言い換えれば、生物と総称される複合体は、周りのリズムと時間に合わせて行動する“時間プログラム”に対する総称だという事も出来る。これらの“時間プログラム”は、予測装置でもある。生き延びる為に、未来を予測する組織なのである。”時間のプログラム“をホワイト・ヘッドは「精神(マインド)」と呼び、「精神こそ生物そのもの」と考えたのである。そして、宇宙レベルの大きな情報≪波動≫があり、そこから少しずつ出てくる小さな情報≪波動≫生物であると考えられるのである。ゆえに、宇宙は個々の生物の総体とは見なされず。それ以上の”何か“なのだという事になる。
最近では、最初の地上の生物が宇宙のどこか他の星から来たという、いささか極端な話が一部で唱えられている。例えば、DNAの二重らせん構造の発見者フランシス・クリックを始めとして多くの科学者たちが、生物は単純な最近の形で地球に辿り着いたという説を信じている。人類よりはるかに知性の優れたある宇宙の生命体が遠い星に生物を住まわせようと考えて、計画的にこの移住を実行させたとまでクリックは主張する。また、この移動は何十億年も前に地球に落ちた流星によるものであるとする偶発的な出来事だと主張する人も多い。【2020年NHK番組では、太陽系は特殊な構造で、ガス惑星である木星の火星への接近による影響を受けていて、小惑星帯等から大量の水が地球にもたらされたと放映されていました。】
これらの説を唱える学者は、実は“精神ある宇宙”が意図と脈動を持って脈動しているという説に近づきつつある。彼らは、高い知能を持つ生命体が大宇宙のどこかに存在していると思っている。しかし、私たち人間を存在させた高い知能を認めるというのなら、その知性自身を存在させた更に高い知能が存在すると考えられないだろうか。このように推論してゆくと、結局「万物を見通し、統合し、組織するものこそ宇宙である。」という”時間進化論“と同じ考え方に辿り着く。しかも、この宇宙は「精神」であるという考え方は、「場(フィールド)」の理論によく似ているが、宇宙における「場」の力を追求すればするほど、それは「精神」に近づく。このような新しい理論では、宇宙はただの物質的な空間でなく、エネルギーの流れを持ったものであると考える事が大切である。生物に力を及ぼす「場」の力とは、膨張する宇宙を支えているエネルギーと関連しているのではないかと思われる。
このように、固定した蓄積を巧みに扱う事により成り立ってきた科学は、ダイナミック・フローを考慮に入れた科学によって取って代わられようとしているが、それは偶然の事ではない。このことは、人間のエネルギー基盤が蓄積(化石燃料)から、流れ(太陽光線の利用、バイオテクノロジー、情報量の大きな増加)を基盤としたものに移行しつつあるからである。【但し、2020年の40年後の未だ移行中である】科学的な仮定とは、変化するものであって、結局は新たなエネルギー環境の実情を反映しているからである。
ベルギーの物理化学者イリヤ・プリゴジーヌ(非平衡熱力学で、1977年にノーベル賞受賞)によると、古典物理学の基本たる因果律及び正確な測定という概念は、現在、熱力学の第二法則を拠り所とした科学によって、定義のやり直しを受けているという。また、この世界に起こるあらゆる出来事は唯一無二の現象であり、それゆえ、科学的観察に基づいても、正確に未来を予測することは不可能だと述べている。
もはや、デカルトやベーコン、そしてニュートンが描いたような考え方で自然を知る事は出来ない。人間は、自ら自然と分離し、その内部の秘密を発見し、自然世界を人工的に操作する為の自然法を作り出すという考え方は、まったくの誤りであるとされるに至ったのである。
何故なら第一に、デンマークの物理学者ニールス・ボーア(1885~1962)が指摘しているように、我々は自然の秩序の展開という点で演技者であると同時に、観客でもあるからだ。どんなに挑戦しても、我々は自ら取り巻く世界から、分け隔てる事は出来ない。
第2に、古典物理学の決定論的意味合いにおいて、固定した心理の集大成といった概念は、もはや受け入れられなくなっている。我々が現在体験している宇宙は絶えず変動し、不安定になっているからである。プリゴジーヌは新たな科学の変革の本質を「宇宙を自動機械として描く古典的な方法ではなしに、宇宙を芸術として捉えるギリシャ的思考に立ち戻らなければならない。」と、述べている。このように、ニュートン力学系は、現在では完全な真理ではなくなっているのである。
(8) 現代経済学の問題点
今まで見てきたような我々の脳のニューロン=価値観は、経済学とどのように関係しているのであろうか。第6章でみたように、アダム・スミスは人々に、おのおのが個人的な利益を追求することは公共の福祉を増進させると主張したと我々は単純に信じてきたが、現在(1984年当時)の我々についてはどうなのであろうか。
今、我々は何のために生きているのか、もしくは、どうして我々は働かなければならないのか、という質問に応え得る学問は何であろうか。もし、答えられないのであれば、どの学問分野において我々はその答えを見つけ出すことができるだろうか。
最初に考えられるのは、宗教学、そして哲学であろう。しかし、宗教学というのは日本においては信教の自由というのが原則で、葬式は仏教、結婚式は神道、クリスマスにはにわかクリスチャンになり、1週間後にはお宮で手を合わせて、表面的にしか宗教と関わらない大多数の日本人にとって、宗教学において答えを得るのは難しいように感じる。もし、宗教というものが本当に人々に浸透すれば、今まで見てきたような弱肉強食の自由競争を根拠としている現代の経済学は成立しないだろう。では、哲学はどうであろうか。実際問題として、現在の教育システムの中で哲学を学ぶのは大変努力がいるように思われる。大学の文学部で哲学に触れる以外は機会がないため、哲学も我々に答えを日々の生活の中で出してくれそうなものではないように思える。では、何をもって、我々が何の為に生きるのかという疑問に答えを出してくれるのであろうか。歴史、地理、生物、物理ではないようである。しかし、第3章、第4章でみてきたように、我々の価値関係性には、親からや社会からの情報が大きく影響している。親は子に「いい高校、いい大学、いい会社、そしてお金をたくさん稼ぐのよ」。そして、社会は「たくさんの所得があることは良い事だ」と情報を与える。これらの考えに理論的な根拠を与えるのが、実は経済学ではないか思える。このことは、経済学者の学術的な意図とはもちろん関係ない。そして、経済学は、すべての人々の直接的福利に関わるものであるし、とても重要なのである。
【ここの部分では、家庭や社会のナラティブが成功に対するディスコースを設定し、それを価値観として広める役割を果たしたのが経済学だという事の表現になっています。】
このような経済学についてここでは、「自由競争」「市場均衡」「均衡対不均衡」「インフレーション」「外部不経済」「GNP」「経済分析」の主に7つの点について述べたいと思う。
「自由競争」
まず自由競争について、この行動を行う経済人(ホモ・エコノミカス)について、まずはっきりさせてみよう。東洋経済の体系経済学辞典では、次のように書かれている。
「(前略)経済人の想定の内には、倫理観と係わりのない合理的選択という要因が含まれている。経済分析から言うとむしろこの要因の方が重要である。需要の選択が合理的に行われて始めて正常な経済関係が成立するが、それには客観的な自由競争、主体的には経済以外の動機による錯乱の排除が必要である。歴史的にみれば、スミスはこのような条件を求めて、自由競争や自愛心の開放を唱道した。従ってスミスの人間観の内には、慣習的な権威から解放の要求が含まれていたので、後に歴史学派が批判した経済人と異なって明るいものがあったのである。
しかもJ.S.ミル以降は、経済人の想定は主として経済以外の動機を「かっこ」の中に入れて、合理的に行動する人間という意味をもつことになった。・・・・・・(後略)」となっており、また、経済倫理として
「経済倫理は、経済活動の目的、その行動様式、および組織のありかたを規制する総合的な価値意識である経済意識を構成する主要な要因であり、経済活動の目標を定める価値意識であるが、経済意識は有機的な統一体であるから。経済倫理も単にその機械的な構成要素の一つであるというよりも、むしろ社会倫理の視点から経済意識を捉えたものであると言った方が良いでであろう。
経済倫理の主要な任務は、①人間の行動の価値を判定する基準を明示するとともに、②この基準に適合するような行動の厳守を遵守させることにある。・・・・・・・・社会倫理というのは、この価値判断の基準が社会的価値に強く関連していることを、その基本的な要件としているのである。
M.ウェーバーやゾンバルトが唱えた資本主義的精神は、明らかに典型的な社会倫理と見る事が出来る。この視点から近代的な経済倫理を規定しなおしてみると、次のようになる。
【下線部は、現状などから違和感を感じる部分】
第一に、行動原理としての合理主義である。これは目的に適合した手段を合理的に選択して、大きな効果を上げようとする。第二は、社会的評価基準としての普遍主義である。これは社会的価値に対する貢献を基準として、人間をその業績に即して評価しようとする。第三は、組織原理としての職能主義である。社会の存続と発展に必要な職能をそれぞれの職域に分担させ、社会組織の機能的分化が行われるとともに、それぞれの職能を通して人間と人間の関連が規制される。これらの3つの原理が有機的に結合して、近代経済倫理を形成している。
この経済倫理は、資本主義の成立とともに形成され、資本主義の形骸化と共に変化してきているが、基本的には現代の経済社会においても働いていると、いうようになっている。
しかし、この中に出てくる合理的、合理主義とは、いったいどういう事なのか。国語辞典には、合理主義=「すべて理論に基づいて考えてゆこうとする主義」とあり、これは第六章でみたようなニュートン力学的思想を基礎とした不確実性をあまり考慮に入れない理論で世の中を法則に合わせて秩序化しようとする主義なのである。また、経済学辞典には、合理主義=「行為の究極的目標の意識形成と目標への一貫した計画的な方向付けが行われる場合」とあるが、究極的目標とはやはり混乱する社会の秩序化というものが根本にあるように思われる。さらに、社会価値とはいったいどのようなものなのだろうか。おそらく、貨幣的、物質的価値、もしくはその増大を指すのだろうが、これらがエントロピーの増大と結びついていることを思い出してもらいたい。いわゆる社会的評価の高い人々がロールスロイスやベンツでガソリンをまき散らして走っているのをみかけるが、これが現代の社会的価値の現われであろう。また、貨幣とは、再生不可能な資源の将来の消費を保障するものとして、エントロピーの増大を問題にする人々にとっては、真の幸福とは関係のない単なる自然環境への負債だと認識されているのである。このように社会的価値が変動する可能性を持つ以上、それを基準にする普遍主義などもはや普遍ではないと思われる。そして、職能主義については、人間を単に生産の要素の一つとして捉える点において、過去の奴隷制度や農奴の考え方からどの程度の進歩があったのであろうか。確かに、産業革命から現在までの200年間は、これらの合理主義などが役に立ったかもしれないが、現在のエントロピーの増大の危機に対しては、もはや考え方を変える時が来たのではないかと思われる。
そして、経済人の想定は学問上の想定に過ぎないのであって、人間がそれぞれ単純に利己的に行動すれば、実際の社会はどうなるのか、もはや各個人はその答えを見つけているのだし、我々が経済人とまったく同じような合理的な行動をとる必要はまったくないのであり、この点はもっとはっきりと明示されるべきだと思う。
【2020年現在のコロナウイルス騒動におけるマスク、アルコール消毒液やトイレットペーパーに対する個人の純粋な利己的な行動がどのような社会的評価をもたらしたかを確認すれば、明白である】
一方で、我々が全く利己的な利益の追求をまったくしないとなれば、現在の経済学はその現実への対応において意味をなさなくなるし、経済分析がある程度我々の現実の分析に役立つという事は、我々にはやはり利己的に利益を追求する存在であるという一面があることを認めざるを得ない。
第六章の我々の持つ、「合理的に社会を秩序化し発展させなければならない」という概念に沿って、経済学でも個人が合理的に利益を追求すれば、社会は豊かになるという考え方を持つ。このことから、経済学の本来の意思とは関わりなく、我々は利己的に利益を追求すれば良いという理論的根拠を持つことになる。もちろん、ボランティア活動などを行う人なども多いのだろうが、老人ヘルパーの有償化等の新聞記事などを見ると、やはり我々は利益を求める存在なのではないだろうか。経済学はあくまでこの私的利益の追求に基づいた自由競争が基盤になっているのである。
レスター・C・サローは「デンジャラス・カレンツ」の中で、
「アメリカの主流の経済学者は、経済内部の理論的整合性や厳密さに対する学問的欲求を大きく反映をしているが、その学問的欲求は我々に住む観測・測定可能な現実をそれほど大きく反映していない。……経済の伝統的な需要供給モデルを受け入れる事は、世界は平だ、あるいは、太陽は地球の周りを巡っていると信じるようなものだと言っていい、と私は確信している。」と述べている。この経済の伝統的需要供給モデルが現在ではどうなったかについて、引き続き引用してみよう。
「均衡的価格競争売買の世界観は伝統的な世界であり、経済学そのものと同じ古い歴史を持っている。この考え方は、いかなる財やサービスに対しても均衡価格を達成するような自由な供給・需要市場において、最大化を行う消費者あるいは生産者としての個人を考察する。それは知的一貫性に恵まれた経済学であり、伝統的な経済学の領域をはるかに超える意味合いを持つものである。それは結局のところ、経済理論であると同時に政治哲学であり、一種の宗教に近づくことさえも多い。更に加えて価格競争売買モデルは数学化できるという利点を持っている。それは微積分とごく親しい間柄にある。数学を使いこなすことの方が、経済を本当に理解することより重要になるにつれ、厳密性は容易に死後硬直へと退化してしまう。
「市場均衡」
経済学で論争の的になる問題は、市場は競争的で均衡するのか、ということではない。━すべての市場は均衡するし、アメリカの大部分の市場は、競争者のいない生産者はいないという意味で競争的である。真の問題点は、市場の価格の変動によって均衡するのかというところにある。
他の均衡メカニズムによっても、経済に均衡的な競争市場が成立することは可能であるが、これらの市場は違った性格を持ち、その結果もまた異なってくる。競争による均衡は、種々の段階で存在するが、標準的なモデルでは価格競争が必要とされる。価格競争のもとでは、誰もが可能な最低コストで生産と販売をせざるを得ないから、経済的な効率が得られるのである。
しかしながら、私たちの周囲で見る現実は、価格以外の競争形態をとることが多い。価格の引下げは比較優位をもたらさないと誰もが考え≪日本では価格引き下げが比較優位をもたらすと考える方が多数であったかも知れない≫それゆえ、他の人が真似できないで、そこに差をつけられるような領域(品質、サービス、製品の差別化等)における競争に焦点を絞ろうとする。
技術的には、非価格競争をそれがあたかも教科書に登場する厳密な価格競争モデルと矛盾しないかのように、常に記述することが出来る。また、サービスの改善は、インフレ率の低下として表れない。そうしてこうした場合には、有休生産能力の創出を図ったマクロ経済学に反応した価格の低下は生じてこない。
価格競争売買モデルがスムースに機能するか否かは、市場の価格側と需要側のどちらもが、価格の変化に比較的大きく反応することにかかっている。計量数学の研究は、需要の弾力性の構造全体を推定しようと試みるならば、誰がやっても常に需要の価格弾力性は非常に低い傾向を持っている。
「均衡対不均衡」
経済学者の間の意見の対立は、大部分の市場が均衡するのに要する時間の長さに関して、競争モデルでは不可知論的であることに原因がある。すでに均衡している経済において、その世界が瓦解し、別の外的諸条件と整合する新しい経済が形成されるのは容易であろうか。
均衡的価格競争モデルでは、市場が均衡するのにどれくらい要するのかについては、モデルは何も言っていない。もし、調整期間が長ければ、その調整(不均衡)の間に何が起こり、その不均衡の期間がその経済の将来の方向にどのように影響するのか、という類の困難な諸問題が表面化する。(これは、モデルでは触れていない。)
このような場合には、経済はいわゆる“不均衡レント”と呼ばれる。生産要素に対する正常以下または以下の収入が生じる事になる。
【2020年3月~5月においては、コロナウイルスという外的条件が発生し、マスクやトイレットペーパーの価格急騰や1929年の大恐慌に匹敵する株価下落や急回復、国家間の往来や大阪府と兵庫県の往来自粛、緊急事態宣言の発令等による生産や経済活動の不調和が起こりました。経済学の指定する均衡はあくまでこの一瞬の均衡です。歴史的、又は時系列でみると激しく上下してしまいます。】
現在普及している経済理論は動態的ではない━時間の経過に伴う変化を追う事が出来ない━から、経済学者は比較静学と呼ばれる手段に頼ってきた。比較静学というのは、異なる初期条件がどのように異なる均衡を生むかを、経済学においてそれら二つの間をどう動くかを考えずに分析する方法である。しかし、比較静学は誤解をもたらす様な結果をもたらすことがよくある。“長期においては”というのは経済学者の好む表現ではあるが、それは初期条件が乱されると、経済は長期には新しい均衡へと移動するという広く行き渡った仮定があるからである。このような仮定のもとでは永続的な不均衡は不可能だし、たまたま不均衡があれば、それは“市場の不完全性とか、硬直性”というようなレッテルを張られる。この立場からは、たとえ不均衡が存在しても、それは一時的な効果しか持ちえない。市場は最終的には調整され、経済は最終的には新しい均衡点へ移動する。
しかし、調整期間が十分に長ければ、ショックへの調整が終わる前に別の外的ショックが生じるであろうから、経済はいつまでたっても均衡の位置に移動できない。
常に新しいショックが生じ、経済は決して落ち着き場所を見出だせないのである。その結果、経済学者がそう呼ぶことを好まないとしても、現実的分析は不均衡に焦点を当てなければならない。実証的には計量経済モデルは、時間に伴う経済行動をモデル化することを追求しているが、それらのモデルは動学理論に基づいていない為、常に何らかの面で満足なものになっている。動学理論は存在しないが、すべての経済は動学的である。
関連する問題を考えてみよう。価格競争売買市場の方式を取る組織は、確かに一時点の利潤を最大化していると信じる理由はどこにもない。社会・経済組織が別の形態になれば、もっと多くの投資をもたらし、またより多くの研究開発、勤労意欲の高い労働力、ずっと大勢のエンジニア、あるいはその他のもっと高い生産、利潤の為に必要なものをもたらすかも知れない。日本とアメリカの経済を比べると、中立的な観察者なら誰でも、アメリカ経済は均衡的な価格競争売買のモデルにより近いが、日本経済のパフォーマンスの方が優れているというだろう。
【この当時はジャパンAS NO1等と日本はもてはやされていた。その後に日本は形式的な(ガラパゴス的)グローバルリズムを表面的に模倣し、大手企業では滅私奉公のシンボルである全国転勤制度等は残したまま能力主義に移行するような勤労制度を日本は構築し、その後20年以上に及ぶ衰退の流れに向かってゆく一因となったと思われる。】
経済学者は、”文化の違い“というあいまいな言い方をして逃げてしまうが、このような態度は人間行動のすべてにわたって適応できるはずの経済理論にとって、「何の足しにもならない。」というようなことを述べている。このサローの捉え方は、アダム・スミス以来の”神の見えざる手“による均衡的価格競争売買モデルについての限界を述べている。この点に着目すると、この論文で述べられているアダム・スミスらによる世の中を法則に従って秩序化しようとする経済学、サローの言葉によると”ニュートン経済学“についての限界を示している。
「自由市場」「自由競争」についてもう少し話を続けたい。ヘイゼル・ヘンダーソンによると、現在では自由競争の前提になるものが失われつつあると指摘している。一つは、先端技術における技術革新が進むほど、一般の人にはこれらに対する知識は分からなくなり、市場を構成するのに必要で十分な情報量が得られなくなってしまうのである。このことは、我々ホモ・サピエンスが、合理的な情報により価格に対応できる経済人からますます遠くなることを示している。さらに、H・ヘンダーソンは「いくつかの先端技術、例えば原子力特有の複雑さは、普通の有権者はもちろんのこと、上院議員、下院議員、大統領でさえ十分には理解できていない。それゆえにこのような技術は全体主義的なものとならざるを得ない。
さらに悪いことに、これらの技術はその規模の巨大さゆえに、科学技術の革新に向けての十分な参加や申し立てを排除してしまうにも関わらず、同じくその規模ゆえに、社会投資や税金で賄われる補助金を必要としているのである。」と、この現代の技術の高度化が、民主主義であれ、社会主義であれ、資本主義であれ、民主社会の条件を破壊していると述べている。次のパラドックスは、
「高度に複雑化した技術を持つ成熟した工業社会では、自由市場や自由放任政策が作用しなくなっているのに、私たちはまだ自分たちが生み出してきた複雑さをうまく管理でいるような公的な選択システムを案出していないという事である。それどころか私達はどのようにすれば良いか、糸口さえつかめていないのだ。」
このように技術の高度化に従って、より一層複雑化した社会を管理することはとても難しいのである。
【2020年の現在、更に社会は複雑化し、その問題も人類にとってより影響の大きいものになっている=企業の社会的責任=「企業の社会の調和」】
過去200年間の自由競争によって自然淘汰が行われ、現在はいくつかの強者しか残っていない多くの市場において、これらを社会にとって有効に働かせる方法はいまだに見つかっていない。唯、独占禁止法などにより形ばかりの自由市場を作って、それを懐かしんでいるに過ぎない。
伊賀隆著「経済学に何が出来るか」という本の中での、自由経済について記述は次のようになる。「生産能力αがある場合、自給自足経済βよりも、分業社会θの方が米を5t多く出来るわけである。つまり比較生産費というものがうまく利用されることによって、分業の利益が発生するのです。だから、適材適所、適地生産、適合立地といった事に配慮して、生産を行うことが大切です。」「もう一つ大切な事があります。分業社会にとって必要なモラルです。」「分業社会は、この意味で平等社会でないとうまく行きません。職業の貴賎や職務の尊卑があっては、分業社会の根本的な原理である適材適所が貫かされません。」とあり、社長と掃除婦とは比較生産性でまったく対等な概念であるとしている。この点は、サローも「デインジャランス・カレンツ」の中で述べているように、社長と掃除婦は、賃金と心理的要因を加えた場合の個人の効用は同じだと言うように考えれば解決され、理論的には職業の貴賎は排除されるのである。しかしながら、我々はこのような事を実態として認識できるであろうか。また、分業の限界については、経済人モデルをよりホモ・サピエンスに近づける事により、多くのモデルで限界を乗り越えて、理想に近づけるようにも思える。
分業が行われている所では、特化による生産物の偏りの為に物品の交換が必要になる。「分業すれば、分業の利益が発生します。……交換比率の決まり方によっては、全く分業の利益を得られない場合もあるのです。」と記述されている。強い売り手A、弱い売り手B,強い買い手C,弱い買い手D,における市場では、BとDが排除されてしまうことになる。「そうです。需要と供給が一致するというのはとんでもない残酷な事なのです。Bは小企業であり、供給者の中の弱者です。Dは低所得者であり需要者の中の弱者です。こういう弱者が排除されることによって、需要と供給が一致するのです。需給の一致という事はとても残酷な事なのです。せめてのこと馬鹿な顔をして誤魔化すより手がないではありませんか。」「価格を上げたり下げたりすることによって、弱者を排除してゆく。その結果として、需要と供給の一致が実現する。これを価格メカニズムと称しています。」と記述されている。
つまり、分業によって生じた利益は価格メカニズムによって強者のものとなってしまうのである。第6章でのロックの主張「この世の中は、優れた者の為にある。」ということでもあり、ダーウィンの主張する「自然淘汰・適者生存」の結果なのである。「どのメカニズムでも残酷という意味では変わりません。もともと乏しいものを分け合うこと自体が残酷なことですから。」と、結局マルサスの人口論に帰結してしまうのである。
「競争があると効率が高まり、効率が高まると厚生が大きくなる。」という経済学の神話については、「パレート最適というのは社会的効率です。そして費用が最小(利益が最大)となる点は、各企業の個別的効率点です。この二つの効率点が、価格メカニズムと利潤の追求によって一致するという事がわかりました。こうして神話が完成します。価格メカニズムに干渉してはならない、企業の利重追及を妨げてはならない。そんなことをすると、社会的効率と個別的効率が一致しなくなる。だから、自由経済、放任経済が一番良い、というのが神話の結論です。」しかし、サローの意見で見たように、価格メカニズムは必ずしもうまく機能しないし、ここでの最高の効率を達成して得られる効果は、再生不可能な資源を消費して作られたキャデラックやフォード等の高級大型車であり、ガソリンの消費を促し、エントロピーを増大させるだけなのである。
「自由主義のパラドックス」として、アダム・スミスの自由主義が利己心に基づいたものであることから、「経済社会には様々な欠陥があり、改善しなければならない課題が山積みしています。……そして当然のことながら、世の中を抜本的に解決しなければならない、という主張が出て参ります。……諸悪の根源を突き詰めてゆけば、最後に突き当たる壁は人間です。だから根源主義は結局のところ、人間改造論の罠に落ち込んでしまいます。人間を改造することなど出来るのでしょうか、人間を改造することはほとんど不可能に思われます。」とし、根源主義の誤りは、人間関係の改善と人間自身の改善を混同したことにあるのである、と結論付けられている。
第4章でみたように、「社会は人間の価値観の投影」でもあることから、人間の価値観が変わることによって、社会が変化してゆくことは十分あり得る事だと思われる。このことが、人間自身の改造に該当するかどうかは定かではない。しかし、人間自身と人間関係と大きく関わりあった物事を、あえて別々に取り出して考えるという事は、機械的世界観に基づいた考え方だと言える。
「神話の基本的な部分は認めてもよいと考えています。しかし、価格メカニズムと利潤追求に任せておけばすべてうまく行くという主張には反対です。」と述べられているが、これは実際には価格メカニズムがうまく機能していないからだと思われる。価格機能がうまく機能しない例としては、「インフレーション」、「投機的動機に対してはうまく機能しないこと」例えば、オイルショック・パニック【2021年の現在はコロナパニック】、そして「カルテル」である。オイルショック・パニックを説明するものとしては、「囚人のジレンマ」がある。犯罪の容疑者A・Bの損得表を考えてみると、「所詮は泥棒でした。ふと心に芽生えた不信感を押さえきれず、自白した方が有利に感じられるのである。このジレンマは、「黙秘」「自白」を「買い控え」「買い占め」と置き換えれば、「買い占め」説明できる。つまり、他人が裏切って先に買い占め値が上がる前に、自分が買ってしまった方が有利に感じられるのである。同様に、「黙秘」「自白」を「カルテル順守」「値下げ」又は、「不戦」「開戦」に置き換えれば、闇カルテルからの脱退、軍拡競争を説明できるのである。」このことから、「各人が、各社が、そして各国が、自分の周辺だけのごく限られて利害だけを計算して行動すると、自分も相手も共倒れになるのです。局部的利害と大局的利害はとは、神話が主張するようには一致しないのです。その為、人間が賢くなればなるほど、全体の利益が損なわれることもある訳で、これは人間自身の善悪とは関係がない事だと言って良いでしょう。むしろ人間関係、利害関係を少しでも改善することの方が、はるかに大切な事だと思います。経済学はいわば、その利害算術ですから、人間同士の利害関係を徹底的に計算し尽くさなければなりません。」と記述されている。この内容は、ここでまとめている内容とほぼ同じであるが、ではどうして、神話と現実は一致しないのであろうか。
神話が有効であるためには。価格機能がうまく機能していなければならないという条件があるからである。ここで見てきたように、価格機能がうまく短期的に機能をしていない現実では、局部的利益と大局的利益は一致しないのである。では、常に囚人は自白し、買い占め、過当競争、軍拡が現実には怒らなければいけないか、というと、そうではないことも現実をみれば理解できる。軍拡においても、日米間、日中間においてはあまり行われていない。実は、このようなモデルを作ることもできる。先ほどの条件を変えて、憲法第38条や刑事訴訟法319条において、自白は証拠能力を欠くということが定めてあるので、一方が自白を行っても他方の有罪が確定するものでもない。このモデルでA・Bとも完全なアリバイ工作を行っていると仮定しよう。そうすると、先に自白をして裏付けを取られた方が損をすることになる。先には「所詮は泥棒でした。」という価値判断を含んでいたので、「ねずみ小僧の子孫であり、正義感が強くお互い相手の為なら命をおとしても構わない。」と規定してみると、Bが自白しようが黙秘しようが、Aは自白することが損となる。尚且つ、Bが自白することは、黙秘しているAにとっては、心理的なダメージが一層大きくなるので、Aの効用はさらに下がってしまう。このように、各人、各社、そして各国が、経済的利害以外の人間的な正義感やモラルをしっかりと持つことにより、「買い占め」「軍拡」などは起こらなくなるのである。もちろん、この場合も神話は成り立たない。それは、このモデル人が経済学で規定された経済人とはかけ離れているので、価格メカニズムもうまく働かないのである。この意味では、経済人は囚人のジレンマを惹き起こしてしまうので、やはり神話は神話なのかも知れない。
以上これら二つの場合のどちらが現実的なのであるかという問題であるが、現実はこの間にあるとしか言いようがない。この問題を良く知る為にも、人間同士の利害関係を徹底的に考えなければならないのである。そして、人間関係、利害関係を改善しなければならないのだが、今まで見てきたように「経済人」の規定は偏ったものであり、この事を解決する為には新しいモデルが必要だと考えられる。現在の経済人モデルでは、貧しい人への寄付はその人の将来の利益の見返りを想定した場合しか行われないのである。この考え方がより浸透してゆくと、名前が明確に出るテレビ・ラジオのチャリティ番組は盛況となるが、無記名の「社会鍋」等は衰えてゆくのである。
このような新しいモデルに対してサローは、「デンジャラス・カレンツ」の最後に次のように述べている。「この本のすべてのパラグラフで経済学者たちの観念とカテゴリーを使って来た。私の望むところは、ここで提示された観念がその形や生命を我々が生きている現実世界から導き出す事であり、ホモ・エコノミカスの世界から引き出す事ではない。経済学は単純化された過程を使うことなしには成り立たないが、その秘訣は正しい場合に正しい仮定を使う事である。そしてこの判断は世界がどのような状態にあるかを研究する、実証分析(歴史学者、心理学者、社会学者、そして政治学者によって用いられているものも含む)から来るものでなければならず、我々の経済学の教科書におけるような世界はいかにあるべきかを教示するような実証分析から来るものではないのである。」と述べている。この主張は、機械的世界観を憂える人々の主張とよく似ており、モデル人の倫理的判断力や能力の限界を考慮してもよいと思うのである。
このようなアプローチの一例として、並木信義の現象学という考え方がある。経済についての事象を考えるには、次の4種の概念、変数を使用する。
① 経済概念(資本主義、社会主義など)
② 経済変数(数量的に使いうる経済概念。賃金・物価・利子・利潤など)
③ 非経済変数(選挙における政党の得票率、大学の学生の理工学部制の比率等)
④ 非経済概念(政党、大学教育など)
「現象学の意味は、研究者に対して次のような態度を教える点にある。
まずサイエンスの探求結果を判断中止(エポケー)のカッコ内に入れておく。何故ならサイエンスは一定の方法に従って現実を切るものである。そうすると、その方法で切れる断面が見えてくる。つまり、他の側面は見えてこないのである。だから、その結果をそのまま信じてはいけないのである。このように判断中止のカッコに入れて、それからおもむろに頭を360度めぐらして世の中を観察する。世の中というのは、関連領域という意味である。関連事項に思いをひそめて、カッコ内の観察結果をそのまま受け入れて真理とみなすか、あるいは重大な欠落ありとして、これに有意義な変更を加えるかするわけである。これはある意味では、コロンブスの卵的な話である。
経済分析では少なくとも4つの変数・概念からなる四次元空間において経済を見なければならない。しかし、実際は経済変数・概念という二次元扱いだから正しく見えない。だから実務家は従来から四苦八苦して、これにいろいろな要因を加味して、現実的に意味のあるような結論を導き出したのである。ある意味では、後ろめたさを感じながら。しかし、後ろめたさを感じるのは不要であって、経済理論を適用するとワンサイディッドな姿が出てくるから、これを補正するのが正しいのである。つまり従来の実務家の手法が正しいのである。これが現象学的な態度である。」とある。このような態度を持つことによって、経済学に新たなモデルが考え出されるかも知れない。また、このような手法においては、唯一の答えはなかなか見つからないかも知れないが、大規模なニューメディアの開発・出現はこれらをカバーするかも知れない。
自由競争はもちろん政治体制の中にも取入れられている。このことを良く表しているのが田中角栄問題だと思われる。この問題は、政治上で仮定された自由競争と現実のギャップをよく表しているようである。仮定上では、各選挙区の代議士の能力は同等であるとされ、各地方区の人口比によって代議士を決め、各地方の代議士が各地区の利益を代表することにより、討議。決議をへて、国の国策が決められる。この場合各地区の利益を競合させることにより、「神の見えざる手」によって、国民に最大の効用をもたらす国の政策が決定されると仮定されているはずである。では、現実はどうであろうか。各代議士の能力は異なっており、政党・派閥・人間関係・時流・運などが微妙に関わってくる。その為、我々は議会制度ですべて物事がうまく運ぶとは思っていない。新潟に東京、北海道の次くらいの公共事業費が使われることが、各地方区の利益の総和もしくは最大公約数の結果ではなく、個々の代議士の力量によって決まると思っている。その結果もあって、各代議士は国全体の利益を考えるべきだというのが世論ではあるが、それは自由競争が事実上機能しないので、各個人は社会全体の利益を考えて行動せよという考え方とほぼ等しいことに注目しなければならない。このような考え方が主流となり、我々の価値観が大きく変わり、エントロピーの増大に抗する新たな社会概念へと向かうかどうかはまだ断定できないが、これらの変化については注意深く見守ってゆく必要がある。
このように我々自身が自覚している以上に、人類にはもはやゲシュタルトスイッチが入り、社会の価値観も変わり始めているのかも知れない。1983年の12月の総選挙では、このような問題が内在化してはいたが、結果は田中氏が史上最高の22万票を獲得し、一方自民党としては過半数を割るほど落ち込んだ。これは一見矛盾したような結果ではあるが、マスコミの単純勧善懲悪自己中心的エリート意識に裏打ちされた田中害悪論の単純な展開が、ただ単に新潟三区の住民の怒りをかったことからくる結果のように思われる。詳しくは、ここでは述べるスペースもないが、マスコミは社会のエントロピーを増大させるのに十分な役割を担っているように思える。一つだけ例をあげておこう。筑摩書房「現代資本主義」の中に、電通PRセンター戦略十訓として次のような事が挙げられている。
1. もっと使用させろ
2. 捨てさせろ
3. 無駄遣いさせろ
4. 季節を忘れさせろ
5. 贈り物にさせろ
6. コンビナートで使わせろ
7. きっかけを投じろ
8. 流行遅れにさせろ
9. 気やすく買わせろ
10. 混乱を作り出せ
とあるが、これらを世間に広めるようにCMを流しつつ、政治・経済に影響を与えるのである。
【結局、経済学はある時点の価格の均衡を示しているだけなので、期間的均衡という経営学的観点から理解することは難しいかもしれない。】
「インフレーション」
次に「インフレーション」についてみてみよう。サローは「均衡的価格競争(プライス・オークション)モデルでは、一般的に価格が上昇しても相対価格に影響をしないから、インフレを回避すべき理論的な根拠はない。」「実証的な事実からはインフレと長期的な経済の成功との間に相関関係は存在しない。第二次世界大戦以来、最高のインフレ率を伴いながらも最高の経済成長を示した国━ブラジルや日本━がある。」「事実、もし経済成長を阻害するものがあれば、それはインフレ率自身ではなく、インフレ対策を目的とした景気後退を伴う公共政策なのである。アメリカの生活水準は生産性に左右されるのであって、インフレ率によって左右されるものではない。」と述べている。
つまり、生産性が上昇をしていれば、高度成長期の日本のようにインフレ率は問題にならないのである。また、我々がインフレを問題とするのは、自分の所得がインフレにより上昇することより他人の収入が価格上昇によって増える事を問題視するからだと述べている。
では、生産性とは何であろう。産出量/投入量ではあるが、これはだいたい1又はそれ以下である。労働生産性とすると、一人の労働者がどれだけの効果をだせるかということになる。この労働生産性を増やす為には、投入量を増やしていかなければならない。例えば、機械化や化学肥料・農薬の投入によって、農業の生産性を向上させることが出来る。しかし、一方で「緑の革命」によって生じた所得の格差のような社会的費用を生んだり、殺虫剤に抵抗力を持つ害虫をはびこらせたり、農薬によって汚染された水を流出し、もっとも安定し弾力性のある農業を破壊し、急速な土壌崩壊を招くと言った環境的費用を増大されたり、巡り巡って人間の口に入り、健康被害とそれに対応する為に社会保障の費用を増大させたりする。第二章で整理したように
原材料+有用なエネルギー
=富+廃エネルギー+廃物
であるから、生産性の増大は一方でエントロピーの増大をもたらせてしまうのである。
しかし、この説明で「インフレーション」の原因を説明した事にはならない。
アメリカにおける1971~1973年のインフレは、サローによると天候不順による農作物と肥料の現象による価格上昇と1973年のオイルショックによるものである。予期せざるこれらの危機に対しては、経済学は無力だったのである。実際、今まで繰り返し述べられたことであるが、資源の希少性とインフレは関係があるのである。また、現在の農業は石油に頼っており、石油の価格と農産物の価格とは無関係でないのである。
【オイルショックでは原油価格が$3程度から$10程度まで上昇した。近年$70程度まで上昇したが、2020年4月現在$20程度に急落している。その後、2021年には再び$70まで上昇し、インフレ(スタグフレーション)圧力懸念となっている。】
この考え方によると、インフレは社会がますます質の劣るエネルギーと物質の抽出・精製という仕事に労力がかかり、エネルギーと物質が得にくくなることによって、より多くの資本とエネルギーを振り向けなければならない、という事に関して促進されるのである。利用しにくい資源に多くの資本とエネルギーをつぎ込むことによって生じるコストアップが最終消費財の価格を上昇させるのである。この上昇に対しては、多くの人々の所得はそれに見合う上昇がすぐには起こらないのである。
【この10年後に、日本では時代はバブル崩壊へと向かい、日本は20年以上のデフレの期間を迎える。その間にも石油価格の上昇は大きかったので、ここで述べられている事とは別の解説が必要かも知れない。】
農業においても、多量の収穫を得る為に多くの石油を使うが、このエネルギー効率は非常に悪い。1カロリーを得る為に、10カロリーも消費するのである。この事実は、明らかに第3章の最小最大の法則を満たすものではない。それゆえに、消費者は高い農産物を買う羽目になるのである。
都市生活においては、飲料・水・下水、更には温度を維持する為に大量のエネルギーを使っている。このことが都市生活者のインフレ感を加速するのである。
各国の軍備増強は、国民に多くのコストと失業をもたらす。兵器は使用されるまで、ほとんど国民に新たな仕事をもたらさないし、核兵器は使用すると国民からすべてを奪ってしまう。使用されない場合は、廃棄されるだけであり、それにより国民生活を向上させることはない。「軍事費を多くすれば、インフレ傾向が高まるという点では、奇しくもどの経済学者も考えは一致している・・・・・・・・。というのは、勤労者の手に金が行き渡っても、購入すべき物資の供給が拡大しないからである。ミサイル等の為に消費者市場が制約されてしまう訳だ。従って、自動車、冷蔵庫、機械類などの価格が上昇する原因となるのである。我々は、教育、情報産業に多くの投資・エネルギーを振り向けようとしているが、これらはエネルギー抽出技術、都市の維持の為の設備、軍備と同様に、我々勤労者に金が回ってきたとしても、消費者市場においては供給を増やすものではないので、我々にとっては数字以上の「インフレ」となってしまうのである。
このような「経済を混乱させるようなインフレの嵐の原因についての経済学者の理解には問題がない。気象学者と同じように、経済学者は嵐を惹き起こした要因については説明できるが、これまた気象学と同様に嵐の原因を解明したからと言って、経済学者が彼らの理解している嵐をコントロールできる訳ではない。」のである。これはこれらの事柄が、経済の「外部」についてのことだからである。そこで次に「経済の外部性」について考えてみたい。
【1980年代までは、今思うと不思議な気もするが、「インフレ」が諸悪の根源的な位置づけであった。バブル崩壊以降日本経済はデフレ時代に突入し、現在の経済目標は「インフレターゲット」である。この転換の傾向が特に日本にだけ継続的で顕著であることも良く考える必要があるように思われる。】
「外部不経済」
「外部性」とは、経済活動の中で市場機能によって、資源配分を律しきれない部分である。例えば、公害については、生産者・消費者ともその費用を負担せず(エントロピー増大の観点からは、いつか人類全体にとって大きな負担となるが)、公害防止に必要な諸費用を無視することによって、公害は「外部性」を持つことになる。
【2020年代では、既に処理しきれない、負担しきれない大きさの費用になっているのかも知れない。】
このようにエネルギー循環系や生態系の中の人間という認識を無視した伝統的な経済理論においては、この論文の主張するネゲントロピー機構の達成はなしえない。つまり、現在の問題は解決されないのである。
いわゆる近代経済学の諸前提に立てば、原子力発電は電力会社の投資の対象として収益を生む限り、あるいは、生むだろうという期待が一般的である限り、それがたとえ大事故なしでも恒常的に放射線被ばく者を増やすという悲劇さえ、「外部不経済の一つの例に過ぎない」というような話になってしまう。もっと良くない事には、そのような被爆者の増加は、放射線医学・薬学の隆盛を極める為に経済成長をもたらし、「歓迎すべきものだ。」という事まで言ってしまう危険性があることだ。他方、マルクス経済の前提に立てば、死の灰【1960年代付近では地上の原爆・水爆実験による死の灰の降下という事もあった。】も、ウラン採掘、精錬、濃縮、加工、発電などに関与する人間労働の産物であり、労働価値を持つという珍妙な話になる。あるいは、死の灰は使用価値を持たないから、それに労働価値を帰属させればよい、という抜け道もあろうが、そうすると、人間労働が経済過程を介在して作られた「死の灰」それ自体が、経済分析の対象外だという無責任な結論になってしまう。実際、日本の現在の原発は、それ自体がアメリカの輸入品だから悪いのであって、日本の労働階級が自主技術を開発すれば良いのだ、というような議論は種々の労働組合で良くなされているのである。
「外部性」は価格機構を通じて認識され、GNP(国民総生産)として集計され得る「測れる経済」に対して「測れない経済」の分野を形成し、国民の厚生を増減させる大きな要因となっている。しかし、この外部経済についての研究はまだ浅く、グンナー・ミュルダールは次のように述べている。「私たちは“外部不経済”と印された図式の中の空箱を埋め始めた所だ。つまり、外部不経済が出来るだけ正確に価格に反映されるように、生産が生み出している社会的費用を出来る限り拾い集めている所だ。このようにすれば、もっと正確な価格付けが官僚主義に代わるものとして十分に行える。」多くの外部不経済は、計量化できるか、あるいはその近似値を出すことが出来る。そうすれば、本当の付加価値を測るところまで近づくことが出来る。」「今、私たちが見ているのは、社会的・環境的搾取という出費を払って初めて得られたたちまちにして消え失せないまでも、非常に儚い利得でしかない。市場経済が「利潤」と呼び、国家統制経済が「経済成長」と呼んでいるものをこのように改良された計量方法で測ってみるということになれば、すべての資源配分の決定に関しても素晴らしい改良が行われることになるだろう。しかしながら、市場経済においては、特にこれらの外部不経済の計量化についてはなおざりにされたり見逃されてきた。」と、H・ヘンダーソンは言う。ここではこのような考え方に立って、外部経済について考えたい。
まず一例として、ピアノの騒音問題について考えてみよう。この場合のように、ある経済主体の行動が対価の授与なく他の経済主体の効用を減ずる場合を「外部不経済」、逆に増す場合を「外部経済」という。演奏者の効用は徐々に減少するので累計で1時間3,000円(+3,000円)、2時間5,000円(+2,000円)、3時間6,000円(+1,000円)とし、隣人の不快感「外部不経済」は徐々に増加するので、累計で1時間1,000円(+1,000円)、2時間3,000円(+2,000円)、3時間6,000円(∔3,000円)とする。つまりこの場合、隣人は演奏者が3時間演奏をすると6000円の損害を被ることになる。そこで、演奏者が2時間演奏するとその時の1時間あたりの演奏者の限界効用と隣人の限界非効用が+2000円で一致する。その時点で、演奏者の効用は隣人のより大きな犠牲なしには増加しなくなる。この状態をパレート最適という。もちろんこのような例は説明用で現実には存在せず、現実には演奏者が隣人に金銭を支払う事によって、経済上の解決がなされる。なぜこのようなことになるのか、これはここまで述べたように経済学は、ある1時点における状態を探求する学問であるからである。つまり、静学理論なのである。もし、隣人が演奏者に演奏を2時間で止めてもらう為に、1時間3000円の費用を払うとしたら、次のような場合である。演奏者が隣人に、 「どうだ、俺の演奏は。これ以上聞きたくなければ、後1時間演奏するところをその見返りの価値として3000円でゆるしてやる。」とけんか腰に隣人を脅す場合である。この3000円は現実には隣人の不快感を表すものでなく、実は演奏者の1000円の効用感を隣人が支払うだけでも良い。いずれにせよ、現実的に犠牲を払っている隣人が演奏者に金銭を払う事はないだろう。この例のように、経済学の理論と現実の違いが、サローの指摘するように経済学の弱点なのである。限界△△とは、ある一瞬のことを指すが、現実は常に移り変わってゆくのである。また、この例においては更に現実は、演奏者の効用が50万円であったり、隣人の非効用が100万円だったりすることもある。そのように考えるとパレート最適を見つけ出すことは更に難しくなる。
次に示す例は、社会的により大きな課題を持つ事例である。
「川上に位置する農業者Xが、例えばこの生産活動に伴う汚染物質を川に排出し、その結果、川下の漁業者Yの漁獲量を減らす、あるいは、従来と同量の漁獲量を得る為に要する費用を増すとする。汚染は漁獲減(費用増)という形で「社会費用」の一部を形成する。もし、農業者に生産の自由の権利(川を汚染する権利)を認めれば、この費用は米価には反映されない。よって市場では農業の生産費は過少に、魚の生産費は過大に評価される。しかし、農業者と漁業者が交渉を出来るのであれば、農業者の限界利益減と漁業者の限界利益増が一致する汚染物排出量の設定で完結する。逆に、漁業者にきれいな水で維持する権利(川の汚染を制限する権利)を認めれば、農業者は川を汚染することによる限界利益の増加を持って、漁業者の川の汚染による限界利益減を補償することにより、漁業者の許可を得て農業者は農業生産の増加と川の汚染を拡大する。この2つの場合、パレート最適の汚染量は、農業者と漁業者の限界利益関数が変わらない限り、どちらの権利に基づいても同じ内容となる。「外部性」を「内部化」する費用を最小にするならば、採られる対策はいかようにその費用を各権利者に分担させるかとは無関係に決められる。」しかし、実際の現実において、農業者の生産の自由の為に、川の汚染を行うことが実際に認められるのであろうか。ここで指摘するのはこの点である。むしゃくしゃするからと言って、人を殴るようなモデルを作れるだろうか。もし、モデルを作ってしまえば、それを社会的に是認するような動きにつながらないだろうか。同様に国民の権利を考えた時に、経済モデルだからと言って、川を汚染する権利の正当性をモデルとして認めて良いものだろうか。
同じことを製紙工場で考えた場合は次のような形を取る。
『「日に3千トンのヘドロが流れ込む駿河湾。それが海岸線を死の海へと化し、港をヘドロで埋めた。考えてほしい。同じ製紙工場でも島田市にある東海パルプ会社は2億5千万円を廃水処理施設にかけ、更に1億5千万円をかけようとしている。しかも会社は「迷惑をかけた過去がないわけじゃないし、褒められようとは思わない」と言っている。だが、大昭和製紙の方は、「県の指導に従って垂れ流してきたのは当然」といい、社長は「悪いのは県だ。今になって処理施設を作れなんて、漁民と業界の従業員とでは数がまるで違う。市民の生活権をどうしてくれる。調和が大事なのよ。」と言った具合である。(引用はいずれも朝日新聞、1970年7月29日付けから)そして、東海パルプと大昭和では、業績を反映して株価は7月29日現在、82円と158円。公害を防止せず、自然を破壊している大昭和の方がもうけ、成長していることを示している。これで良いのか。 』
(伊東光晴「現代資本主義」筑摩書房)より」
上記の内容は、高校の政経の資料からの抜粋である。ここでのポイントは、大昭和の社長の発言が、汚染を認める事を経済学の知識を根拠にしていなかったかということである。社長の示す調和とは、ここで見てきたようなパレート最適汚染と似たような論理を持っているのかもしれないが、これでは社会的・環境的費用を無視しすぎている。
話を先の農業者と漁業者の関係に戻すと、それぞれの権利を認めたとして、パレート最適を導き出すことは可能なのだろうか。農業者の汚染の権利を認めそれを測定することは出来ても、その影響による漁業者の漁獲量の現象を証明することは難しいであろう。往々にしてこれらは、他の要因にすり替えられる。気象や海流の変化やそもそも漁業者の取りすぎによる資源量の現象を指摘するだろう。現実には、漁業者の限界利益を知る事は難しく、パレート最適を見つける事も難しいのである。
また、この問題が解決したとしても、これで社会的費用をコストに反映できたかというとそうではない。農業者・漁業者には、消費者が存在する。消費者にとっては、農業者・漁業者で決定されたパレート最適が適応できない。農薬で汚染された米、汚染された魚を口にすることは、健康費用を考えるとリスクの高いものである。消費者はこのコストを考えて、よりコストの高い(社会的費用を含んだ)安全な食品を選択するのが賢明である。
このように、社会的・環境的費用をどんどん突き詰めてゆくと、我々にとって何が本当に価値のある事かが判ってくる。近年は、自然食、それも結構に高価なものにも関わらず、それらがブームになっているのは、人々の間でこの社会的・環境的費用についてわずかながらでも認識が進んでいるからではないかと思われる。経済学としてはこのような機運を逃さずに、より現実的なモデルにおいて我々の物質的な欲望が、社会的・環境的費用を増大させ、インフレを招く要因となることをもっとはっきりと示すべきだと思われる。
【基本的には、市場経済主義が効率的だと信じるが、その市場の中に外部不経済の費用を極力組み込む必要がある。これは簡単ではない。しかし、市場均衡の前提である経済人は全知全能であるので、その方が理論的な整合性が取れ、適切な市場での調整が行われるはずである。
(ex.外部不経済:原発による放射性物質の無害化の費用、たばこのポイ捨てによる清掃費用(街でボランティアの清掃をしてみるとほとんどのゴミが吸い殻である)、プラスティック製品の海洋流失によっておこるマイクロプラスティックによって今後惹き起こされる問題への損害費用・浄化費用等、出来るだけ市場の中で調整が取られるように、コスト価格に組み込む工夫が必要である。)
そのような流れの中で、2020年冬に世界は脱炭素化社会に向かうことになりました。そこでは炭素税として、排出に対する課税が実施されますが、上記のような外部不経済の問題を解決し、全知全能の参加者で構成される自由市場に現実を近づける為には、効果的な対応に思われる。その他の排出行為にもそれなりの税を付加し、市場の仕組みの中でSDGs課題解決に向かわせる取り組みが必要だと思われる。】
「GNP」
「GNP」についてもまとめておきたい。今日では以前ほどではなくなったが、GNPが増大し、実質成長率が昨年より高い等と聞くと、条件反射かうきうきしてくる。この論文を書きだした頃はまだ景気が薄曇りであったので、今、更に景気が悪くなってくる【1983年冬において】と、なんと暗い文章になってしまっているのか、我ながら感心する。とにかく、我々が求めているのはGNPの極大化なのである。しかし、そのGNPにはここまで見てきたように、文明の維持コストも事態も加算されているのである。出来ればあまり作りたくない原子力発電や原油の価格上昇による影響もGNPも押し上げているのである。ラルフ・ネルダーが、「自動車事故が起これば、いつだってGNPは上昇する。」と言った通りになっているのだ。同様に、社会的・環境的な必要経費も成長に寄与することになっている。この社会にあっては、モデル化不可能で管理不可能な複雑さと相互依存性から生じてくる社会的費用が指数関数的に増大し、現実の生産というものを上回ってしまうほどになる。これらの社会的費用は、経済のソフト化のかなりの部分を占めていると思われる。まず大切なことは、この社会的費用をしっかりと把握することである。社会的費用の分析モデルは、GNPの増大が、実際には我々の生活の質を向上させていないことを示すかも知れない。そうすれば、経済を産業部門によって評価し、私的部門とそれが公的部門で発生させている社会的費用の上昇との間の関係を捉える事も可能になる。例えば、たばこ会社に対して、肺と呼吸器系の疾患に関係のある医療費の内で妥当な部分や街中に捨てられる喫煙者のたばこの吸い殻の清掃費用等を分担させるのは実に当たり前のこととなる。妥当な割り当て計算はアルコール中毒の社会的費用の妥当な部分についても、同様に行うことが可能になりある一定の割合を酒造業者が負担する可能性もある。
社会的費用を算出できるようなデータが集められれば、それらをGNPの計算に組み込むことも可能になるだろう。日本では純国民福祉として、社会的費用を控除した指標もあるが、広くは行き渡っていないようである。
もう一つ大切な事は、家事やボランティア活動、レジャー時間をどのように扱うかである。経済のソフト化が進むにつれ、家事手伝い業、有料ボランティア(?)、出張サービス業の出現は、これらに対してコストや生産性などにヒントを与えつつある。しかし、これらの内容はまだGNPでは、はっきりと捉えられていないのである。また、活力に満ちた人的資源に対する投資というよりも、むしろごくごくつまらない偏差値の上昇の為に、教育分野で投下される資本も見直されるべきである。横山やすし氏も言うように「偏差値が悪いんとちゃう、偏差値に負ける己が悪いんじゃ」ということであろう。
今、多くの良心的な人たちによって、人々に浸透し始めている新しい価値観が社会に浸透し、社会にフィードバックされれば、この横山氏の言葉もより多くの人が簡単に受け入れられるだろうと思われる。市民の技能や知識、さらに望めば、賢明さが増大することは、物理学の憂鬱なエントロピーの法則によって制限を受ける事のない成長の一つの形態といえる。物理資源が希少化するにつれて、人的資源への投資が最善の戦略だという事が明らかになるだろう。これらの指数関数的成長をはっきりと捉える事は、とても難しいものだが、私たちが生き延びる為の最良のチャンスとなるだろう。
「経済分析」
「経済分析」については、「自由市場」の項目でかなり記述したが、もう少し補足する。金森久雄氏の「日本経済の基礎知識」の記述を参照すると以下のようになる。
経済学を物理学のような方法で扱おうとすると、条件を非常に単純化して、いろいろな条件を仮定し、それからだんだんと条件を緩和していって現実に近づけるという方法を取ることになる。だが、純粋経済学と現実経済はあまり距離がありすぎて、容易につながらない。『物理学的経済学』では、実際に意味のある知識を得る事は難しいだろう。しかし、ハロッドが、『物理学や化学では、誰でも基礎的な勉強をしないとわからないと考えているのに、経済学では向こう見ずな素人が勝手な理屈をいう。』と嘆いたように、理論と実感の両方が必要なのだ。ケインズは「経済学者は、ある程度まで数学者で、歴史家で、政治家で、哲学者でもなければならない。彼は記号もわかるし、言葉を話さなければならない。彼は未来の目的の為に、過去に照らして現在を研究しなければならない。彼はその気構えにおいて、目的意識に富むと同時に公平無私でなければならず、人間の性質や制度のどんな部分も彼の関心の外にあってはならない。芸術家のように超然として清廉、しかも時には政治家のように世俗に接近していなければならない。」(『人物評伝』大野忠男 訳)と書いている。
実践的な経済学をマスターする為に必要な7つの点は、次のようなものである。
1. 実証主義と経験主義
経済学の基礎は事実だと思う。基礎の統計を丁寧に集めて、足したり割ったり、苦労を惜しまず努力をすれば、必ず何か新発見が出来るものだ。
2. 現実に即した理論
これは理論が無用だという事ではない。事実を集めるにも理論がいる。しかし、理論にも抽象度には数多くの段階がある。どの程度の理論が現実に役立つかをわきまえていないと、理論を知っている為にかえって現実が分からなくなってしまうということである。
3. 政策論的思考
実践的な経済としては、政策思考的に物事を考える事が望ましい。
4. 歴史的な感覚
過去の歴史的な分析は、現実を知る為にも頭の中で勝手にこしらえた小理論よりもずっと有益なのである。
5. 一歩先を見る力
歴史派にも欠点がある。過去に捉われて新しい変化を見失う危険がある。人より半歩か一歩先んじて新しい方向性を示すのがエコノミストの理想である。
6. 頭の働きの速さ
7. 時の問題を見つける感覚
その時に世の中が求めている問題を早く見つけるという問題の発掘力が重要である。」
これらは、かなりの部分で前に上げた現象学的なアプローチの仕方と共通する部分をもっている。サローの「デンジャラス・カレンツ」では、このようなエコノミスト的な考えと経済学者のモデルを少しでも近づけようとする問題提起だと思われる。佐和貴光氏は、「サローは現実がうつろいやすい事をまず認めた上で、「頑健な理論」を構築する必要性を提唱している。確かに計量分析は不安定である。しかし、いかだのような安定した計量分析がたとえ出来たとしても、それは常識の上乗りの域を出ず面白みを欠くとしか私には思えない。豪華帆船を波静かな湖上の浮かべてその乗り心地を確かめてみるというのも、有意義な試みではあるとは思うが、如何なものだろう。」と述べている。
だが、我々の社会は、地球号は、快楽を楽しむ人々や2等の人々を乗せて、静かに巨大な氷河に突き進んでいるのである。その時に重大な影響力を持つ船長である「経済学」が、静かな湖に浮かんでいるつもりでは困ると思うのである。
サローの一般均衡論批判は、理論そのものを内在的には批判していないのであまり意味をなさないだとか、「例えば、市場均衡の仮説、効用極大化の仮説などの諸前提の「現実味」についてとやかく言うのは筋違いであり、これらの諸前提から導かれる命題の経験的妥当性の判定こそが、理論の「現実味」についての決め手とされるのである。他方、新古典派経済学を批判する人々の多くは前述のような方法的立場を知ってか知らないでか、新古典派経済学が前提として設ける仮説の「非現実性」をあげつらうことにもっぱら終始する。すなわち、論路実証主義に対する帰納主義者の方法的立場によって、新古典派を批判するわけである。サローの批判もまたご多分にもれない。」という意見もあるが、サローは自著の中で、「現在、経済を揺さぶっている激動は、単に学会の関心事であるだけでなく、実際の経済的選択が行われている知的環境や公共の思潮に強く影響する問題なのである。………経済学者は、通常の学界や技術界の人々にはないやり方で、これまで国民、報道関係者、政策担当者、そして政治家を脅かし続けてきた。」というのを述べているのが、それらに対する答えであると思われる。サローが何度も「デンジャラス・カレンツ」の中で述べたように、「経済学は、結果を出す為にはこうあるべきだ。」と言える訳である。政策において、仮定が現実と合致しない場合は、より良い状態を作り出すために、現実社会における不完全性を排除できるのである。また、経済学に用いられる仮定が、広く社会の教育課程で浸透を図られることによって、無意識にこの仮定が我々の価値観の中にも含まれてしまい、社会との相互フィードバックによって、社会【ナラティブ・ディスコース】を徐々に変えてしまう可能性はすでにここまでで述べた通りである。これら2つの点を考慮すれば、サローが、経済学における仮定(特に経済人)に対して、もう少し現実に近づけるべきだという主張は、充分に根拠があり大切な事だと思われる。協調をしておきたいことは、経済学は社会や人間に対するその立場からの価値判断を含み、それらを社会に当てはめ、結果として資源配分を決定できる学問なのである。これらの経済学における仮定が、社会に影響を与えるのならば、第6章で確認したように、社会はますます機械的世界観・価値観に基づいたものになるのである。その結果、外部不経済としてエネルギーなど社会の各種の面でエ悪化させてしまうのである。このような意味でサローもデンジャラス・カレンツの中で、機械的世界観≪モダンな考え方≫を打ち破ろうとしたのかも知れない。別の言い方になってはいるが、彼もエントロピーの増大について関心があるのかも知れない。
「デンジャラス・カレンツ」の帯広告での宣伝文句が、「レーガンのアメリカは経済戦争を仕掛ける以外、日本には勝てない。USビジネスマンを怒らせた問題の書!」という内容から、サローの来日直後、「先進国経済に警笛を打ち鳴らした問題の書。袋小路を抜け出せない理由を根本まで問い詰め、経済政策に忘れられた「人間」の復活を訴える。」と内容が変わったのは、この書に対する解釈が、ここで問題としている機械的世界観から特殊相対性世界観に変わるというような面から見直されたのかも知れない。
【この変更は、モダンな考えからポストモダンへの移行期が始まった証左ともいえるかと思います。】
(9)経営学への期待
ここまで、エントロピーの法則を踏まえた上で、経済及び関連した領域までをみてきたが、改めて以下にまとめてみたい。
まず一番大切な事は、現代社会━機械的世界観に基づいた社会において、もっとも重要な役割を果たしているのが、経済学であるということである。その為、行動の研究を専門にしている社会学や心理学によってずっと以前に否定された仮定、すなわち合理的な効用の最大化という仮定に依然として頼っているのである。だからと言って、経済学が間違っているだとか、過去に悪影響を与えなかったということではない。むしろ今まで近代においては、経済学は十分に役割を果たし、世の中を良くしたと言えよう。サローも言うように、「経済学の200年にわたる歴史において、集団としての経済学者が経済行動についての理解を大きく進めてきたという事実を決して否定するものではない。事実、他の分野においても、経済学の問題の深刻さと意見の対立程度のものは存在している。」ということである。21世紀をまもなく迎えようとしている今、経済学において、現実とのギャップが大きくなっているのは残念である。なぜなら、もはや我々は文明を支える為に、エネルギー、空気、そして当然のことながら水も、近々(過去の人類の歴史から見れば、)に、もうひとつ核兵器も忘れてはいけないが、限界に達してしまうのである。もはや、永久的な発展というものは、疑問視されている。我々は現在使えるものは何でも使い切ってしまおうとしている「積み木くずし【家庭内での不良子女ドラマ】」的ドラ息子でしかない。出来れば社会が完全に定常系に移行ができれば良いのだが、残念ながら経済学は許さない。第3章でみたように、最小最大の法則を満たす最小エネルギーで、最大の幸福を満たす社会を目指せば、その定常系はより長く続けることが可能になるだろう。一方で、一部の人々が主張するように単純に昔の農耕社会に戻り、定常系を実現することは不可能ではないが、その為には大量の餓死者を伴うかもしれない。17世紀に産業革命というゲシュタルト・スイッチが入った西洋文明がほぼ全世界を覆いつくしてしまった以上、もはや簡単に過去に戻ることは難しいのである。
我々がはっきりと認識しなければならないことは、エントロピーを今現在一度に増大させて得られる我々の安楽・快楽を求めるのか、子孫の為に今は我慢して、エントロピーを徐々に放出するようにして、地球と生物の生態系に合わせたネゲエントロピー機構に合わせた社会を目指すように転換するのか、決めなければならないという事である。
いずれにしろ、エントロピーの増大は今後も社会を変えてゆくのだが、それにつれて経済学も変わる必要があるということである。
経済学がその前提などを現代社会の実態に合わせて変わってゆけないのであれば、我々の社会を良く分析し、新たな目標を与えてくれる学問が必要となってくる。この観点からは「経営学」がその役割をはたしてゆくべきであると考える。現在の企業の利益追求を主目的とする経営学から、経済学のベースも包括しながら価値観の変化に合わせて、企業利益の追求について再考をしたり、その前提としての国家の運営を明確にする国家経営学、定常系【SDGs等】を前提として、人類の利益を追求する人類経営学(管理学)、生物全体の生態系の維持を目指した地球全体の利益(エントロピー収支)を追求する地球管理学へと発展してゆくかも知れない。
【残念ながらこの後の経営学(マネジメント)の実際の流れとしては、経済学と結婚し、個々の企業の私利益を最大限追求する経営学(ビジネス・スクール)つまり、教祖理論が主流となった。】
これは、神戸大学占部教授の「近代管理論」の中でも、経済人の限界の克服として次のように述べられている。以下の内容について、組織を人類又は国家全体ととらえてみることも可能だと考える。
「まず【経営学を構成する経営人を意味する】「管理人」とは、孤立した個人ではなく、組織の一員として組織を利用することによって、意思決定の合理性を克服し、現実的な合理性を達成する人間像を指しているのである。
(1) 知識の不完全性の克服
意思決定の合理性は、組織において部門の特殊化を行い、知識と情報の専門化を行うことによって、個人の持つ知識の不完全性を克服してゆく
(2) 集団行動の不完全性の克服
各人が自分の行動の結果を予想する為には、他人がどういう行動をとるかについて知らなくてはならない。その場合は、サイモンは2つの集団の行動パターンを区別していることは重要である。一つは不安定な競争的行動のパターンである。他の一つは、比較的に安定した協働的行動のパターンである。競争体制のもとでは、AとBのいずれも相手の戦略について十分な情報を得られない為、他人の意思決定の不安定さは各人の意思決定の合理性を妨げるのである。これに対して、後者の協働的行動パターンにおいては、各人は共通の目的を分かち合っており、他人がどういう行動をとるかについての十分な情報を得ている為に、比較的に合理的な意思決定に到達することが出来るのである。この協働的行動のシステムが、管理組織他ならない。管理論において“協働”(cooperation)というのは、各参加者が共通の目的を分かち合う集団を指している。“調整”(coordination)とは、各人がその意思決定の基礎になる他人の行動計画についての十分な情報を提供される過程をいうのである。
(3) 価値体系の不安定性の克服
意思決定における第3の要素は、各代替手段を実行した場合に生じる予想される結果を評価する過程である。個人の価値体系は、本来不安定であり、一貫性を持ちにくい。これに対し、組織においては組織目的の体系がハイアラーキ(ヒエラルキー)を持って設定される。環境や条件に大きな変化がない限り、組織目的は安定した価値体系をなすことを特色としているのである。」
更に「管理人(経営人)」は意思決定の際、第3章でみたような(A)学習(docility)(B)記憶(memory)(C)慣習(habit)のような心理学的要因をもつのである。このように経営学における「管理人」のモデルは、経済人より現実に近く、新しい経済モデルの検討には取り入れられた方が良いと思う。
また、これらの管理論においては、スミスやマルクスの流れとは違う東洋的な思想を盛り込むことも大切である。このような視点は、現在の西洋人も期待しているようだし、中国とも共通な考え方の世界的なフレームワークを形成することが好ましいと思われる。そうならないと地球管理論は、このまま進めば全体主義、機械的な管理社会となる事が予想される。世界的な共通の目標やそれらについての明確な方法が提示されるならば、国際連合もより理論的根拠を持つものとして、新しい方向性が出てくるかも知れない。今、世界に戦争が多くても、いつまでもそうであるとは限らない。各国においても一度は国内の戦国時代を経験しているのだから。
最後に1980年に亡くなったジョンレノンの言葉を引用します。
「ジョンやその他各国の指導者たちも含めて世の中を良くしてくれるだろうと期待をしてはいけない。自分自身で良くしなければ、世の中なんて変わらないものだ。」
(1984年1月)
【追記は随時】
参考文献
『日本経済の基礎知識』 金森久雄著 1982年12月 (株)中央経済社
『経済学に何ができるか』 伊賀隆著 1980年3月 講談社現代新書
改訂『経営管理論』 占部都実著 1975年1月 白桃書房
『デンジャラス・カレンツ』 流砂の上の現代経済
レスター.C.サロー著 佐藤隆三編集 1983年1月 東洋経済新聞社
『エントロピーの法則』 21世紀の文明観の基礎
ジェレミー・リフキン著 竹内均訳 1982年11月 祥伝社
『エントロピーの法則 Ⅱ』 21世紀文明の生存原理
ジェレミー・リフキン著 竹内均訳 1982年11月 祥伝社
【追記】
内容として、「経済人」についての言及も多かったが、2020年春に新型コロナウイルスと戦っている社会を見てみると、他業種の企業等から(社会全体や)医療機関の支援の為にマスク、防護服、消毒液を無償で提供する動き等や、休業指示という根拠があるにせよパチンコ産業における業者と顧客(経済学上の需要と供給は一致)への強烈なバッシング等が発生している。
これらの動きからは、現在の現実社会には「経済人」の認識は存在せず、社会も「経済人」を実態として容認しているようには思えない。「経済人」(ホモ・エコノミクス)は、経済理論上の存在であり、実際の社会への理論の適応を考える際には、よりホモ・サピエンスや管理人(限定的選択性)としての関係性の視点をしっかりと入れるべきだと感じます。
また、新型コロナウイルスにより社会が大きな変化をする予兆も多くの人に意識されているように感じます。【2020年5月】
ここでの一つの考え方として、貨幣は地球上のエネルギーを行使する権利証明であるということがあります。この考え方に近い形で現在はSDG’sとして「持続可能な成長」が目標とされつつあります。持続可能な成長とは、今時点で太陽から得られるエネルギー(自然エネルギー)を人類が使ってゆくということが最終的な回答になると思われます。残念ながら、石炭・石油・天然ガス・原子力は過去のエネルギーを遡って現在に使用し、環境汚染という形で将来のエネルギーを先喰いしている形になっています。特に原子力は10万年という人類史に匹敵する期間の放射能廃棄物処理に関するエネルギーを先喰していると認識する事も出来ます。なんとか技術的に解決されるかどうか、これらの事実に基づいた判断がなされることが期待したいと思います。
また、現在は貨幣が無尽蔵に刷られている状況ですが、貨幣総量と使用可能なエネルギー総量は最終的には帳尻を合わせる事になるとも考えられますので、貨幣の増刷は貨幣価値の低下、インフレのリスクが大きくあるように思います。そういう意味では、インフレを目指す日本政府が国債という将来の資源の先喰いの形で貨幣をばらまくのは理にかなっているのかも知れません?国家の国債残高が巨額で国家の金利負担の問題もある中で、最終的な結果の意図は良く理解できませんが・・・。【2021年12月】
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